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「ライカ」は世界でもっとも有名なカメラブランドである。
それは世界最高レベルの品質(必ずしも性能と同義ではないが)のカメラやレンズを、
長年にわたり作り続けてきたという実績に裏付けられたものである。
デジタルカメラ時代の今、「ライカ」がそのブランド力を維持できるかどうかは
私にはわからないが、ライカが新たな挑戦を続けていることは間違いない。
そのひとつはパナソニックと緊密な協力関係に現れていると思う。
ここではライカカメラの変遷と、ライカレンズを名称ごとにとりあげ、
そのスタートとなったレンズと名前の由来などを私のわかる範囲で整理してみた。
なおレンズの発売年次などのデータは資料によって異なる場合があり、
ここに記載したものが誤りかもしれないので、その点はご容赦いただきたい。
また限定品などの特殊レンズについては、ほとんどふれなかった。
とても重要なことはライカはレンズを大切にし、特別の地位を与えてきたということである。
それはそれぞれのレンズに固有名を与えていることに示されていると言えよう。
一般にドイツのレンズメーカーは、レンズにきちんとした名称を与えることにこだわってきた。
これに対して日本のカメラ・レンズメーカーのレンズ名は、
会社名と同じになってしまっている。その昔はセレナーやタクマーといった
すばらしい名前があったのだが。もちろんズイコー(オリンパス)、ニッコール(ニコン)、
フジノン(富士フイルム)などのレンズ名は今も健在で知名度も高いが、
これらもレンズ群に対する総称でしかないのは少し残念である。
例外的にコシナはフォクトレンダーブランドのレンズには固有名を熱心に与えているが、
レンズメーカーとしての心意気を感じるためか、
やはりコアなマニア層には受けが良いようだ。 デジタル時代を迎え、
以前よりレンズの存在感が高まっている今、
いよいよライカM8でデジタル新時代を迎えるライカのレンズ群の発展が、
今後も続くことを期待したい。
ライカを製造していたエルンスト・ライツ(Ernst Leitz)社の創立は1849年である。
ライツの生まれたドイツのウェッツラー(Wetzlar)は、
18世紀初頭から光学関連産業が集まっていた。
ライツははじめは顕微鏡などの光学機器を製造する会社であった。
現在もライカ・マイクロシステムズ(ライカカメラとは異なる)では、
高性能な顕微鏡を製造している。
ライカの考案者はオスカー・バルナック(Oskar Barnack、1879~1936)である。
彼はドイツのブランデンブルグ近郊に生まれ、
義務教育を終えた後、マイスターとなるためいくつかの工場で修行を積んだ。
そして1902年に当時最先端の光学技術を有していた
イエナのカール・ツァイス財団に入ることができた。
しかし健康状態に問題があったバルナックは、
約10年間働いたが、ついに正社員の待遇を得ることができなかったという。
1910年頃、ライツでは新たな技術者を求めていたが、
バルナックを知る人がエルンスト・ライツII世(1871~1956)に彼を紹介、
ツァイスでの将来に見切りをつけたバルナックは、
1911年1月からライツで働くこととなった。バルナックは写真撮影が趣味で、
病弱な体で大型のビューカメラを運ぶ苦労から開放されるため、
映画用フィルムを使う小型カメラを考案したと言われている。
またすでにツァイス時代に、小型カメラ開発のアイデアを持っていた。
バルナックは全金属製の小型カメラを、1913年頃3台試作した。
これが後年「ウル・ライカ」と呼ばれるライカのルーツである。
ダブルサイズと称する映画2コマ分の画面サイズ(24×36mm)を持ち、
フィルムを1コマ送ると同時にフォーカルプレーンシャッターを巻き上げることができる
セルフコッキング方式となっているなど、現代小型カメラの基本的要件を備えていた。
だが、まだフィルムは暗室で装填しなければならず、
巻き上げるときには必ずレンズに蓋をして遮光しなければならなかった
その後ドイツは第一次世界大戦に突入したが、
バルナックはウル・カメラの改良を続けていた。
鮮鋭な画像を得るためのレンズについては、
1912年にライツに入ったマックス・ベレク(Max Berek、1886~1949)が協力し、
1920年3群4枚のエルマータイプで特許を取得、
試作機には3群5枚の「ライツ・アナスチグマット」レンズ(後の「エルマックス」)を開発した。
最初の「ライカA」(1925)と次の「B」(1926)は
レンズ固定式で、まだ交換レンズという考え方はない。
Aのレンズは最初期は「ライツ・アナスチグマット 50mm F3.5」だったが、
すぐ名前が「エルマックス 50mm F3.5」と変わる。
エルンスト・ライツとマックス・ベレクの頭の部分の合成語である。
レンズ交換式になる前のエルマーはC.P.ゲルツの新種ガラスを採用していて、
焦点距離がわずかに短くこのため後期型より全長が短い。
これは旧エルマーと俗称されている。その後レンズ供給先がショットに代わり、
硝材変更に伴う若干の設計変更を受けて新エルマーとなる。
1930年初のレンズ交換式となる「ライカC」が登場する。この時にはじめて直径39mm、
ピッチ約0.977mmの「ライカスクリューマウント」(以後Lマウントと略称)が規定される。
ただし最初はマウント面からフィルム面までの距離(フランジバック)が規定されておらず、
このためカメラごとにレンズの調整が必要であった。交換レンズとしては、
標準レンズのエルマー 50mm F3.5のほかに、「広角エルマー 35mm F3.5」、
「望遠エルマー 135mm F4.5」が登場する。また、
より明るいシャープな標準レンズとして「ヘクトール 50mm F2.5」が開発された。
しかしボディ間でレンズの互換性がないのはやはり大変不便であるため、
フランジバックが28.8mmに規定された。1931年のことである。
これによりどのボディにどのレンズをつけても、ピントが合うようになったわけである。
この識別をするためにマウント面とレンズにOマークが刻印されるようになった。
なおLマウントはねじ込みマウントであるため、レンズの停止位置が不定である。
つまりレンズの指標は必ずしも真上に来ると限らない。多少左右にずれても、
ボディの距離計との連動は問題が生じないようになっているので心配はない。
正常なカメラとレンズの組み合わせならば、
ピントリングをまわして距離計がスムーズに動き、
月を測距したときにレンズの無限遠位置で二重像が合致するはずだ。
1932年には、レンズと連動する距離計を内蔵した「ライカDII」が登場し、
ライカの性能は他のあらゆる小型カメラに対し圧倒的な優位にたち、
全世界の小型カメラメーカーの目標となる。しかしこの年、最大のライバルも登場する。
当時世界最大のカメラメーカーであったツァイス・イコンがライカの成功を
座視しているわけにはいかず、ついに35mmフィルムを使用するライカ判のレンズ交換式
最高級カメラ「コンタックス」を投入してきたのである。
カメラの性能としては1/1,250秒の最高速や一眼式ファインダーの採用でライカDIIを越え、
レンズでは世界最高の明るさを誇る「ゾナー 50mm F2」と「同 F1.5」を登場させた。
カール・ツァイスの天才ベルテレの手によるゾナーは、
単に明るいだけではなくその鮮鋭さやコントラストの高さといった
総合的な描写性能で圧倒的に優れており、企業としての規模や光学技術力が
まるで違うライツにとって、大きな脅威となったことは間違いない。
1933年、スローシャッターを備えた「ライカDIII」が発売されるが、
この時ライツ初のF2級大口径レンズ、「ズマール 50mm F2」が登場する。
ズマールはガウスタイプの4群6枚構成であった。もちろんコンタックスの
ゾナー 50mm F2への対抗である。異論がある人もいるかもしれないが、
客観的に見て絞り開放付近の描写性能はゾナーには及ばなかった。
ゾナーに対抗できる高性能レンズはズミクロンの登場をまたなければならない。
1935年、コンタックスに対抗して1/1,000秒を備えた「ライカ IIIa」が登場するが、
レンズ群もツァイスを意識してさらに充実する。まずツァイスの
「テッサー 28mm F8」に対抗して、初の28mm級広角レンズの
「ヘクトール 28mm F6.3」(3群5枚)が登場、明るさの点でツァイスに対し優位にたった。
特殊な軟調描写を目的とした「タンバール 90mm F2.2」(3群4枚)も発売される。
ツァイスには同種のレンズはない。さらに本格的な望遠レンズとして、
「テリート 200mm F4.5レンズ」(4群5枚)が供給された。カメラ内蔵の
距離計ではピント精度が十分でないため、一眼レフ形式となる
ビゾフレックスと共に使用する。テリートは非常にシャープな望遠レンズである。
第二次世界大戦後しばらくするとエルンスト・ライツの経営も安定し、
バルナック・ライカの決定版と言える「ライカIIIf」が1950年に登場、
その品質はまさに世界最高レベルであった。そして1953年、
現在でも名レンズとして名高い標準レンズの決定版「ズミクロン 50mm F2」(6群7枚)が登場する。 |
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